*[etc]小説と描写の密度

そんなことを気に留めたとき、ふと思い浮かべたのは安部公房の長編小説『密会』だった。

と、ここで唐突に断り書きを。
安部公房『密会』は、内容がそれなりにアレなので、18歳以下 (「未満」ではなくて「以下」で) にはおすすめしない。

テキストが手元にないままに書き進めるのもナニではあるが、ここでとりあげるのは作品の中盤で主人公が、自らのいるところと町とのつながりを意識する場面だ。
安部公房の文体はけしてねちっこいほど濃密というわけではないが、作品が描き出す世界のありさまは緻密だ。それがこの場面では、平易な描写がいつもよりもいくばかりか多めに積み重なれた結果、圧倒的な存在感で読み手に迫ってくるほどの光景を描き出している。主人公がいる町のその状況が示される、『密会』の世界により深く入りこむための弾み車の始動みたいなものになっている場面だ。

そこにはあるひとつのお約束があることが前提になっている。それは読み手の想像力だ。
小説に示されている描写からどれだけ脳内にイメージを再構築できるかの鍵となる能力だ。この小説を読む際に必要な能力のために、作り手は文章を研ぎ澄ませて作品を作り、読み手は持てる能力をフルに使って文字から他のイメージを自身の中に再構築する。

そんなことを感じさせる、『密会』という作品のひとつの側面を意識したのは、二度目の読書時だった。初めて読んだときにはそこまでの余力がなかったのだろうが、二度目ではたと気づいた体験だった。
このような体験、もしかするとラノベしか読んだことが無い人には通じないかもしれない。しかしそこには小説が本来持っているはずの力があるのもまたたしかなことだ。だから機会があれば触れてほしいと思う。昔の時代の小説にも。
殊更に、大正~昭和初期の日本文学は侮れない。芥川しかり、梶井しかり。青空文庫がある現代、電子書籍リーダーからも開くことができる、驚きの描写の世界がそこにはあるのだから。


密会 (新潮文庫)

密会 (新潮文庫)